日本の獣医学教育の現状と将来 - 総論 -

唐木英明先生(全国獣医学関係大学代表者協議会会長、東京大学大学院)


(最初に、鹿児島大学獣医学科のホームページを紹介し、獣医学教育を充実させるという動きが一日も早く実現してほしいという希望を述べられ、総論の話に移られた。)

【1】獣医学教育の現状

 獣医学教育を行っている大学は、国立10、公立1(350人卒業/年)、私立5(650人 卒業/年)であり、大学設置基準を満たしている。
 大学設置基準(文部省による基準)には、学部ごとの教官数や学生数が定められていて、農学部では学生160-320人(4年制)、教官8人(半分は教授)で1学科ができる。
 獣医学科は農学部に属していても特例で、上記の倍以上の教員で構成されている。また、国家試験も90%以上合格しているので、一見、良好な教育環境と思われている。

【2】しかし、今の状況は十分とはいえない。何が十分でないのか?

 日本の獣医学教育は昭和52年度入学生までは4年制であったが、53年度入学生から制度改革を行い修士2年の積上げでの6年制とし、昭和59年からは一貫6年制教育とした。この制度改革の主目的は、人手も時間もかかる臨床教育を充実させることであった。しかし、講座数、教員の数も少し増えたが十分でなく、結果として教育の内容はあまり以前と変わらないままである。

【3】その結果、社会から以下のように批判されている。

1. 臨床教育、公衆衛生の教育が不十分。
2. 十分と考えていた基礎教育でさえ、薬・理・農学部の修士課程卒業生にくらべてレベルが低い。
 このままではいけない。何とかしないといけない。

【4】どこが悪いのか?

 大学審議会の答申では、一つは教員の質が悪いと指摘された。しかしそれ以上にシステムが悪い(教員数が足りない、教育設備が不十分)。

教授の人数:地方大学9〜10人、東大16人、北大17人、大阪府立大学15人、
私立大学17〜26人(ただし、学生定員が80-120人)
講座数:9〜17
すなわち、現状においてでさえ、国立大学の各獣医学科(北大は獣医学部)では学生数がほぼ同じなのに、講座数に倍近い差がある。このような差があるのに教育内容は同じなのか? どうして差があるのか?

【5】それでは、獣医学教育に必要な講座数とは?

(1)日本の獣医学科(獣医学部):獣医学教育を行っている大学にある講座の種類は26あるが、すべての大学にある講座は限られている。(地方大学では、教授の数の9〜10講座に限られる)。獣医師国家試験出題科目には17科目ある。したがって、最低17講座が獣医学教育には必要。
(2)医学部 -- 中規模の信州大学 -- との比較
複数講座(解剖、生理、病理、内科、外科)があるのが普通で、前述した最低17講座のうえに、さらに複数講座を獣医学教育でも考慮する必要がある。
(3)外国との比較
1:EUの場合
 99年に通貨統合して実質的に国境が消滅し、EU間の食糧(畜産製品)の流通が自由化したので、その安全性を確保する必要がでてきた(狂牛病やダイオキシンなど)。それをcheckするのは獣医師であり、その質的均一化を計るために、EU内の獣医系大学を全て点検評価した。合格した大学の卒業生のみが獣医師としてEUの全域で活動できるのに対して、不合格の大学の卒業生は獣医師としての活動が自国内に限られる。
●合格した大学の例:120名の学生に対し教員150名(ベルギーのゲント大学)、230名の学生に対し教員280名(ミュンヘン大学)。
●不合格の例:45名の学生に対し教員60名(スイスのベルン大学)。
その理由は?
1. 実地教育が足りない。
2. 基礎教育を医学部でやっており、その内容が獣医学教育に合っていない。
3. 進級、卒業試験が不適切。
4. 教員数が少ない。ヨーロッパの獣医学教育の基準は最低100名である。
ベルン大学に対するEUの裁定:チューリッヒ大学と再編しなさい→
スイス政府はそれに従った。

2:北米の場合
カナダとアメリカ合衆国とでは食料の自由な流通があるので、獣医学系大学のレベルを同じようにしている。
ミズーリ大学では、学生1学年60名(4学年で240名)、教員118名、スタッフ192名。カナダのゲルフォンタリオ大学では、学生100名、教員1200名、スタッフ60名。

【6】それでは、獣医学教育に必要な教員の数は?

世界獣医師連盟が決めた獣医学教育に必要な最低授業科目は24科目。したがって、24講座は少なくとも必要(複数講座を考えるとそれ以上必要)。つまり、(欧米の基準としては)獣医学の全分野を教育するには、教官数は最低100名必要で、教員1に対して学生数は7〜9名。(これを当てはめると、日本でも学生30人に対して、教員は100名必要になる)。
日本では、大学基準協会による基準として:教官72名以上、学生60名が決められた。[欧米の獣医学教育や、日本の医学部(教員140名)や歯学部(教員85人、いずれも学生数120人)を考慮した結果、EUなどよりも小さくなった]

【7】教官数を増やす理由は?

1:国家試験出題科目17科目に対応できない
2:獣医学のような実学では、実地教育(臨床や公衆衛生等)が必要。
現状では、大学の使命である問題解決能力のある学生を養成することが困難。
これらの問題を解決しないと、将来、獣医師を目指す学生の減少や獣医師の社会的地位の低下、国際的評価が下がる等が懸念される。

【8】では、どうしたらよいか?

答えは簡単。社会的要請に答えられる獣医学教育をすればよい。具体的には、
1:最低、国家試験出題科目を教えられる数の講座数(17以上)と教員の数(72名以 上)が必要。
2:単独の大学院が必要。
3:専門教育が可能な設備が必要。

【9】今まで、何故解決できなかったのか?

欧米と日本では、畜産の歴史が異なる。
(1)欧米では動物(畜産業)と深いつながりが有史以前からあり、乳肉衛生や動物愛護を担当する獣医師が重要であるために、獣医師に対する社会の理解と援助があった。
(2)一方、日本では明治以前に畜産業はなく、明治になって初めてできた獣医学校は軍馬が目的であった。しかし、戦後、軍馬はゼロになり、進駐軍の命令で畜産業を振興させようとしたものの、日本ではそれほど振るわず、獣医学に対する社会の理解は必ずしも大きくならなかった。また、動物愛護の精神の違いで、欧米は動物の権利を重視する風潮があった。したがって、獣医師はヒトのquality of lifeに直接関係があるとみなされてきた。しかし、日本ではそうではなかった。
(3)見通しの間違いもあった。戦後、占領軍は、6年制獣医学教育の設置を勧告していた。しかし、もと軍人であった退役獣医師のあふれた社会では、戦後ということもあり、獣医師としての仕事もなく、獣医師の社会的地位は低かった。したがって、そのころの大学は獣医学の将来に展望を見出せなかったので、6年制を拒否した(唯一、北大だけが学部を設置した)。

しかし、状勢はこの20年間に大きく変わった。
1. 動物は人間の友達・家族になった(伴侶動物)。少子化・高齢化社会の中で動物に対する考え方が変わってきた。
2. 畜産製品の消費が増え、輸入が増加し、その安全性をチェックする獣医師の役割が増加した。
3. 野生動物の保護における獣医師の役割が期待されている。
4. 生命工学の担い手として獣医師の活躍が期待されている。
すなわち、獣医師に対する社会の要請が変わり、拡大してきた。これに対応して、獣医学教育も拡大、拡充していかないといけない。

【10】今回の新しい獣医再編運動の可能な道は?

 過去に文部省主導の再編整備があったが失敗した。その理由は、総論賛成、各論反対(他大学が自校に来るのは皆賛成、逆は皆反対)や、地元に獣医学科が必要という政治的な判断などで、1987年に再編運動は中断し、連合大学院ができた。
 そこで、今回の新しい獣医再編運動の可能な道として考えられるのは、
1. 教員数を増やす→公務員定数削減(25%)の現在では、不可能。
2. 学生数を増やす→少子化や獣医師会の問題で、入学定員増は不可能。
3. 獣医学科が今持っている教員を集めてスケールメリットを計る、または現在その大学のもっている教員を集めて獣医学部を作る→ 現実的
また、前回の再編整備運動と違う点は、全国の国公立私立大学が大学基準協会の基準を実現するという意志表示をしている点、すなわち、再編整備に対する獣医の教員達の意志は全国統一されている点である。

【11】いつまでに再編整備すればよいか?

 現在、鹿児島大学と宮崎大学との間では、交換授業による応急処置で部分的に対応を試みているが、あくまで緊急措置であり、いつまでも継続できない。したがって、再編整備はまったなしである。
 また、2003年に国立大学が独立行政法人化される前に、獣医の形を変えておきたい。

【12】再編整備の問題点について

1. 周囲(大学や地域)に迷惑をかけるのでないか?
再編整備は拡張主義ではなく、獣医学全体の規模は変わらない、あるいは小さくなるぐらいで、あくまでスケールメリットを狙うものである。また、獣医特有の部分(臨床や公衆衛生)を充実させるのが目的であり、他の分野を侵食するものではない。

2. 大学は地域に密着した存在であるべきか?
国立大学で地域に密着した研究テーマをもつことは、当たり前。しかし、あまり地域地域というと、各県や各市町村に置かなくてはならなくなる。国立大学は優秀な人材を養成して地域に送り込むことを役割とすべきであろう。

3. 地域の畜産(業)を見捨てるのか?
地域の畜産(業)に責任をもつのは行政であり、大学の役割は教育と研究である。勿論、地域の要請と支援があれば教育機関として大学が支援するのは当然であろう。

 とはいえ、現実の問題として、以上のようなデメリットをどのようにカバーするのかは大きな問題であり、大学全体や地域で考えていかなければならない問題である。そして、以上のような問題があるから獣医学の教育をきちんと整備しない(できない)としたならば、結局、まわりまわって再び同じ問題にいきつくものである、ということを指摘したい。

【12】このような問題は獣医だけの問題ではない。

 少子化の問題などにあたり、大学審議会は個性をもった教育をしなさいといっている。確かに個性は大切だが、それ以前に教育内容の充実が問題ではないか?
 例えば、旧帝大では一人の教官が4〜5人の学生を指導しているのに対して、地方大学では平均して10人以上の学生を指導している。何故このような差があるのか?
 現在、全国に99の国立大学があるが、ほとんどは小さな大学である。しかし、少なくとも理科系教育にはある程度の大きさが必要ではないか?

したがって、大学審議会が言うような個性をもった大学よりも、教育の内容を改善しなければならないという現実の問題が浮かび上がってくる。

●これから何がおこるか?

 今年の4月から大学を外部評価する機関が発足する。
 独立法人化---教育の品質保証システムが厳しくなる。
今後、社会や学生からの要求が厳しくなる(獣医学の場合は国家試験も重要な品質保証システム)。したがって、教育改善の必要性は獣医学だけでなく、日本の全ての大学にあてはまる。

【13】ある学問領域の教育改善にだれが責任を持つのか?

 学部長や学長が責任者であるが、教育内容の改善よりも組織の大きさだけを守ろうとする組織の理論を優先しないようお願いしたい。
 また、教育改善のプランをたてて、実行することができるのは、最もよく実情を知っている担当の教員しかいない。再編整備をして、これから苦労される若い先生方が中心になって教育を改革していただくことを心からお願いする。